Effortless Life
Eastern Europe

東欧の旅⑩ チェックポイントチャーリー

【2010年7月】
(過去ブログから旅日記移行中です。文章&写真はそのまんまです。当時はミラノ在住。)

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ただいま・・お風呂後、テレビ見ながらぼんやりしてます。時間は20時。外はまだ明るいけれど、居心地の良い部屋で過ごすのも今日が最後なのでホテルでのんびりしています。今日もよく歩き、いろんなものを見たなー^^ 明日の夜、23時半にはイタリアのベルガモ空港に到着。帰るところは・・日本じゃなくてイタリアなんだ、なぁ。

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21日水曜はホテルからずずっと歩いて、チェックポイント・チャーリーへ。ベルリンが東と西に分断されていた当時、アメリカ管轄区(西ベルリン)とソビエト管轄区(東ドイツ)の間にあった検閲所(というのかな?)。当時の雰囲気を残してます。軍服を着た人もいるし、アーミーグッズを売るお店もたくさん。すぐ側にある「壁博物館」へ。壁がどのような経緯でたてられたのか、西ベルリンへ脱走を試みた人たちの記録等々どっさり。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の四カ国語ですべてが展示されていたのも印象的。驚いたのがこの博物館が作られたのは1962年ということ。ベルリンの壁が建設され始めたのが1961年なのでたった一年後ということに。東ベルリンとの境界線前の最後の建物。ドイツ再統一後の博物館だと思ってました。 展示をみながら考える・・あれ?「ベルリンの壁」っていうけれど、どの地域を囲んでいたんだっけ?と。ベルリンの位置って・・旧東ドイツの国境ではないよなぁ・・西ベルリンへの亡命ってどういうことだ?と頭が混乱。日ごろの不勉強がたたったのでした。汗。(後で忘れないうちに別エントリーでアップしておきます)

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壁博物館を出て、20分ほど歩いて・・ユダヤ博物館へ。ユダヤ人の何百年にわたる歴史がずずーーーーっと学べます。これまた・・・・きれいな博物館でかなり混んでいた。赤いスカーフのようなものを垂らしたユダヤ人(なのかな?)の館員さんはみんな感じが良い。荷物を預けないといけなかったので写真は無。残念。「ホロコースト」という展示室は亡くなったユダヤ人のための慰霊の部屋。三角にとがった部屋は一筋の光しか入らず、中に入れる人数も制限されている。

チェックポイントチャーリーそばの「壁博物館」に行ってからというものの・・私の頭の中は「壁がどういう経緯で作られて、そして崩壊したのか」ってことでクエスチョンマークで一杯に。で、旅も終わりミラノにも無事に戻ってきたので自分用のまとめとして書いておきます。世界史、大好きだったのになぁ。忘れちゃってるよ完全に。 

ベルリンの位置は、ドイツの中のかなり東寄り。WWIIでドイツと戦ったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四カ国は戦後ドイツを分割して占領。ベルリン地区の東側がソ連占領区で西側が英仏米。西ベルリンは敵陣営のど真ん中にある陸の孤島のような存在。 

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ソ連が占領していた東ベルリンは、社会主義的統治が敷かれていて労働者の締め付けが厳しく、自由の無い生活だった。これを嫌って東ベルリンから西ベルリン側に移り住んだり、東側に住んだまま西側へ通勤して稼ぎのよい仕事をする人が増えてきた。東西間の生活水準の差は明らか。そのような状況は東ベルリン側(東ドイツ、ソ連)にとっては許せない事態。 

そこで東側がとった策が・・・「西ベルリン地区一帯を壁で強引に囲み、物理的に遮断することで労働者を西側に逃がさないようにした。」 で、ここが私は誤解してたとこ。東西ベルリンの境界線上に壁があると思っていた。けれど現実には西ベルリン全体を東独の中で陸の孤島化させたのが、ベルリンの壁だったというわけ。ぐるりと檻のように囲んでいたわけです。 

ベルリンの壁が築かれる前は、東西ドイツ国境は東ドイツが厳しく封鎖されていた。地雷も埋め込まれていたし、壁をのりこえようとする人を感知して銃撃する自動発砲装置もあったというのだからおそろしい。だから西側への亡命を希望する東ドイツ市民は、東ベルリンから西ベルリンへ入る形で亡命をした。西ベルリンに入ってしまえば、そこで暮らせるし、飛行機を使って西ドイツへ行くことも簡単に出来た。

・・・というのが「壁」にまつわる経緯や目的でした。まだ崩壊してから・・たった20年ちょっと。東側のベルリン地区をよく散歩していたけれど、カフェや洋服屋がたくさんあってかつてどんな感じだったんだろうと想像するのが難しいくらい洗練されておしゃれになっていた。