Effortless Life
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Eastern Europe

東欧の旅④ アウシュビッツ見学

【2010年7月】
(過去ブログから旅日記移行中です。文章&写真はそのまんまです。当時はミラノ在住。)

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(有刺鉄線)
今回の旅の第一目的が・・・この施設の見学。ポーランドのクラクフから電車で1時間半くらいの位置に。バスで行こうと思っていたけれど、前日にクラクフ入りしたのが遅かったので調べられず。ホテルにピックアップしてくれるバスツアーがあったので申し込みました。135ズロチ。

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最初に行ったのはアウシュビッツ。レンガ作りの棟は現在28。二階建で外観も非常に立派。すべての建物には地下と屋根裏が。多いときには2万8000人が収容されていたとのこと。区域は有刺鉄線で囲まれていて、見張り小屋も。当時は6000ボルトの高圧電流が流れていて、収容所の生活にたえきれず身投げして自殺する人も多かった・・・。ガイドさんが詳しく説明してくれるのでメモ書き+写真撮影で結構忙しい。建物の内部は写真取れないのでありません。というか・・観るだけで本当に精一杯だったというのが本音。 

4号棟へ。収容所の建設を決定した過程などがボードや残っているドキュメントなどと一緒に展示。収容所を建設する土地を選ぶ条件として、以下のような条件があったとのこと。

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(地図を見るとまさにこの場所は適所)
1.ヨーロッパの中央に位置し、交通の便がいいこと
2.周囲の住民から施設を隔離できること
3.増設していけるくらいの広大な土地があること 

ヨーロッパ中にちらばっていたユダヤ人は、東ヨーロッパに移住させられるだけとナチスに騙されて連れてこられた。

チクロンBの空き缶。ガス室で使われた毒ガスの素。チクロンBは1923年に開発された殺虫剤。

4号棟の二階には犠牲者たちの遺品の一部が公開。圧倒される刈られた髪の毛の山。25x5mのケースにぎっしり・・・。くすんだ色をしていて遠くから見るとなんだかよくわからないけれど、確かに毛髪。ソ連軍が入ってきたときに倉庫から袋に入った7トンの毛髪が発見されたとのこと。毛髪はドイツに輸送され布地等に加工されてたんだってよ・・・ひぇぇぇ。毛髪のカーペットとか・・マットレスとか・・。

5号棟。引き続き遺品の山を紹介する建物。アウシュビッツにソ連軍がやってきたときに、倉庫から囚人たちが所有していたトランク、靴などが大量に発見された。囚人からドイツ軍によって没収されたもので、奪った品々はそのたびにドイツに送られドイツの兵士や市民が利用していたんだって。大切なものだけがつまったトランクを取られた気持ちははかりしれない。そしてそういうものを使用してしまう人の気持ち。何かが確実におかしい。

展示されたいたものは、メガネ、義足義手(おそらく死亡してから回収。モノだけれど肌色のものは生々しい・・・)、食器、トランク(名前や住所らしきものが書かれている)、靴、ブラシや櫛。とくに靴はいっけんゴムの塊みたいに見えたけれど、たしかに靴。両サイドにあるガラスケースに山のように積まれていて圧巻。 これだけの量を見ると虐殺された人の人数を創造してぞっとするけれど、見つかった遺品はほんの一部。ほとんど正確な数は確認できないとのこと。というのも遺体は焼却炉で焼いて、さらに焼け残った骨も粉々にしてすべてを灰にして、池などに流していたから。ほんとうに跡形もなく。

6号棟では・・大量の囚人たちの写真が紹介。連れてこられた日と亡くなった日が書いてある。2-3か月のうちにほとんどが亡くなっていた。収容所に連れてこられた囚人は持ち物をとりあげられ、髪をかられ、裸にされて消毒をうけ、囚人服を着る。そして3方向から写真を取らされ腕にID番号のような識別ようの刺青をいれられる。

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(銃殺が行われていた死の壁)

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(10号棟の覆われた窓)
10号棟と11号棟の間にある「死の壁」へ。中庭になっていて銃殺が行われていた場所。奥にその壁が残っている。当時のほんとうにそのままで残されている場所。壁はコンクリートではなく、裏面が丸太で、表は銃弾が飛び散らないように+音も吸収できるように黒ずんだ繊維で作られている。囚人は丸裸にされて、壁側を向いて立たされて、撃たれた。生前最後に見た風景がこの壁の壁面。不気味なほど静かな場所。

「死の壁」をはさんで左にある10号棟は囚人が生活していた。すべての窓には黒い板がとりつけられているので、囚人たちは中庭で行われていたことを知ることがなかった。反対側の11号棟には黒い板がないのは、SS隊員が勤務していた場所であったので。さらに11号棟には地下監房があった。

地下監房は当時のまま残されていて・・・・雰囲気といったら恐ろしいという以外ことばがない。何人の人がここでなくなり、最期のときを過ごしたと思うと気絶しそうになる。餓死させる独房、窒息させる独房、立ち牢と呼ばれる90×90cmの狭い空間に4人が収容されている場所。こういう独房でじわじわと殺していく方針もとられていたことに、ますます恐怖を感じた。

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やっと外へ・・・。ほっとしたのもつかのま。点呼広場にある集団絞首台が・・。つくりは粗末そのもの。

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アウシュビッツ収容所の元所長、ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われた絞首台。ヘスは戦争裁判の後、1947年4月16日に処刑。

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ガス室の入口。建物のなかは薄暗くて帰りたくなる・・・。その横には遺体を焼いていた焼却炉。囚人たちが入れられると、天井からチクロンBが投げ入れられた。息絶えるまでは20分ほどでだんだん呼吸ができなくなっていく。一番苦しい死に方・・・。

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ビルケナウへ移動。アウシュビッツだけでは間に合わなくなってきたので、1年後に作られた収容所。「死の門」と言われる門が有名で、囚人たちを載せた貨物列車がこの門を通過して収容所に入っていくのが有名。門の上は展望台があり、収容所の全体が見れる。とにかく広大、大規模。

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囚人が収容されていたバラックとトイレ。

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アウシュビッツが28棟だったのに対して、ビルケナウは300以上のバラックがあった。破壊されて残るのは煙突のみ。

他にも・・・遺体の灰を捨てていた池や記念碑等があったんだけれど、私たちのツアーはここまで。もう・・・いっぱいいっぱいで苦しくなってきた。この日は猛暑でとくにビルケナウは広大なだったぴろい土地なので日差しをさえぎるものがない。

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昔から一度は行ってみたい場所だったアウシュビッツ強制収容所見学。たかだか60年ほど前に人間が人間に対して行っていたとは思えない事が、粛々と行われていた場所。広島の原爆資料館とはショックの非が違いすぎた。こういう施設を訪れると、本で読むだけでは得られない生の恐怖を感じられる。信じられない思いで一杯になるけれど、目の前にある展示はかつて行われていたことが淡々と紹介されていて・・・信じざるを得ない。ここまで人間は人間に対して残酷に非情になれるんだと思いさらに恐怖が増した。当時の人々の心理状態や逆にナチス側の心理とは一体どういうものだったんだろう。お互いに希望もなく、ただ絶望しかなかったんじゃないかと思った。

映画「シンドラーのリスト」は言うまでもなく収容所とクラクフが舞台の映画。いまこれを見返すと胸に迫るものがある。

見学者は年配の人も多かったけれど、子供や若ものグループもたくさんいた。一番多い見学者はドイツ人とのことfromガイド。なかなか行くのに勇気のいるところだけれど、本当に行けてよかったと思う。残虐さや悲惨さは辛いほど伝わってきたし、未だ信じられない。まだ続くイスラエル地区での問題等を思うと民族や宗教の問題は本当に解決できるものではなくて、やるせない気持ちで一杯になる。

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明日はもう移動。また一日かけてクラクフから今度はチェコのプラハまで。ウィーン&クラクフ間をさらに超える9時間の電車の旅。冷房・・また故障かな涙 しかも両替したズロチ(ポーランドの通貨)がキレイにゼロになったので、明日は・・買い物出来ないな。ちょっとお昼買うためにまた両替するのも面倒だし。うーん、なんとかなるかな。

それにしても私としたら、移動でこんなに時間がかかること計算せずに旅程たててしまい結構忙しい。クラクフに着いたときは夜だったので・・これだけは避けたい!ホテルの場所も探さないといけないし、両替も出来なかったので怖かったです。

アウシュビッツのエントリは明日ゆっくり書きます。必見の場所。また「夜と霧」を読み返したくなった。人間とはここまで残酷になれる。本や映画でしか知らなかった「昔に起きた恐ろしいこと」が目の前に迫り、本当に苦しかった。

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